東京地方裁判所 昭和41年(ワ)1190号 判決 1966年10月19日
理由
一 破産会社がポンプ類、パイプ及び同接手等水道器材の売買業(卸売業)を営むものであるところ、昭和三九年五月一八日手形の不渡処分を受けて倒産支払を停止し、次いで、同年一〇月一二日破産宣告を受けて原告が破産管財人に選任された事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、まず原告の被告有限会社橋本商店に対する請求について判断する。破産会社の係員が支払停止後同被告に対して金四四万〇、五九〇円を支払つたとの原告の主張事実の有無を検討する。甲第一号証中の被告有限会社橋本商店の印影が同被告の印顆によるものであることは当事者間に争いがないけれども、証人森井哲夫の証言によれば、右印影が、同被告の代表者又は代理人の意思に基づいて顕出されたものでない疑が極めて濃厚である上にその本文は破産会社の係員によつて作成された事実が認められるので同号証は真正に成立したものということができず、他に右原告主張の事実を認めるに足りる証拠がない。されば原告の同被告に対する請求は他の争点について判断するまでもなく失当たるを免れない。
三 次に、原告の被告高木勇、同有限会社上野工業所に対する各請求について判断する。破産会社の支払停止後、その係員が同被告らに対してその振出にかかる本件各手形を返還した事実は当事者間に争いがないので右手形の返還が破産法第七二条第一号又は同第二号のいずれかに該当するかどうかについて判断する。
従前より、破産会社が水道工事請負業者である同被告らに水道器材を継続的に販売していて、倒産直前の頃被告高木に対して金二八万四一一三円、同有限会社上野工業所に対して金一三万五四九九円の各売掛金債権を有していた事実、同被告らが破産会社とその倒産直前に本件前渡金契約を締結した事実、同被告らが本件各手形を振出したのは右買掛金及び前渡金の支払のためである事実及び同被告らは本件各手形の返還を受けるに際し、各買掛金を支払つている事実はいずれも当事者間に争いがない。
そこで、被告らの本件各手形振出の原因関係についての錯誤及び詐欺による意思表示に関する抗弁について検討するに、証人森井哲夫の証言並びに被告高木勇本人及び同有限会社上野工業所代表者各尋問の結果に弁論の全趣旨をも参斟すると、同被告らが本件各手形を振出した当時、破産会社は既に経営が破綻に瀕し倒産寸前の状態にあつたため、同被告らに供給すべき商品たる水道器材を購入するには本件手形をその資金に振向けるほか他に方法がない窮迫した状況であつたにも拘らず、その衝に当つた破産会社の係員は、その事実を知りながら被告らに対して殊更右の事実を秘し、引続き従前どおり水道器材を供給すべき旨を告げて前記売掛金のほか前渡金の支払方をも懇請したので、同被告らはいずれも右係員の言動により、破産会社から引続いて水道器材の供給を受けられるものと信じてこれに応じ、それぞれ、本件前渡金契約を締結した上本件各手形を振出したところ、破産会社の係員は直ちに第三者より右手形の割引を受け、受領した金員を破産会社の他の用途に使用したがその直後破産会社が倒産した事実が認められ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。以上の認定事実から、前記破産会社の係員は、本件各手形を同被告に供給すべき水道器材の購入資金に廻すつもりがなく、従つて事実上同被告らに水道器材を供給することができないことを知りながら同被告らを欺いて本件前途金契約を締結させ、各手形を振出させて騙取したものであることが確認される。かような場合、右の事実だけから、同被告らの本件前途金契約における意思表示が法律行為の要素に錯誤があると即断することは困難であるが、詐欺による意思表示として取消し得べきものであることは首肯できる。しかるところ、被告高木勇本人及び同有限会社上野工業所代表者各尋問の結果によれば、同被告らは手形振出直後破産会社が倒産したので、爾後水道器材の供給を受けることができないことを知り、破産会社の係員に対して、度々前記買掛金の支払と引換に本件各手形を返還すべきことを求めたところ、破産会社の側でもこれに応じ、結局、本件各手形を第三者から取戻した上、売掛金を受領してこれを同被告らに返還したものである事実が認められるので同被告らは詐欺による本件前渡金契約の意思表示を取消し、破産会社側でもその取消を認めて右の措置に出たものと確認するのが相当である。
以上の事実に基づいて考えるに、同被告らは、本件各手形の返還を受けた当時、その振出人として、破産会社に対して買掛金相当額については支払義務があつたけれども前渡金相当額については人的抗弁をもつてその支払を拒むことができた筋合であるから、破産会社の一般債権者にとつて本件各手形の担保価値は売掛金相当額の限度であるといわなければならない。しかして、破産会社は本件各手形の返還に際して同被告らから各売掛金の支払を受けているのであるから、破産債権者が右手形の返還によつて損害を蒙つたものとは考えられず、従つて、破産会社の右行為は破産法第七二条の第一、二号のいずれにも該当しない。
以上の次第で、原告は本件各手形の返還行為を否認するに由なく、従つて、同被告らに対する請求も他の争点について判断するまでもなく排斥を免れない。
四 よつて、原告の本訴各請求は全部理由がないからこれを棄却。